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なぜ『道論』?

鍾会と道

◎及會死後,於會家得書二十篇,名曰《道論》,而實刑名家也,其文似會。

訳:鍾会が死んだ後、鍾会の家から二十篇もの書を得た。名は『道論』とあったが、実は刑名家の論であり、文体は鍾会のに似ていた。

『鍾会伝』ではこういった謎が残っていた。『道論』なのに、道家の論ではない。

その原因は荀悦が著した『申鉴』にある。

◎《申鉴》: 立天之道日陰與陽,立地之道日柔與剛,立人之道日仁與義。陰陽以統其精氣,剛柔以品其罩形,仁義以經其事業,是焉道也。故凡政之大經,法、教而已。教者,陽之化也;法者,陰之符也。 惟修六則,以立道經。一曰中,二曰和,三曰正,四曰公,五曰誠,六曰通。以天道作中,以地道作和,以仁德作正,以事物作公,以身極作誠,以變數作通。是謂道實。

訳:『申鉴』 天がよって立つ道は陰と陽、地がよって立つ道は柔と剛、人がよって立つ道は仁と義。陰陽はその精気を統べる、剛柔はその気質を定める、仁義はその事業を支える、これを以て道と成す。それゆえ、為政する宗旨は、凡そ法と教である。教は陽の下の薫陶、法は陰に潜む切り札。 この六則を以て、道の経と成す。その一は中、その二は和、その三は正、その四は公、その五は誠、その六は通。天道を以て中とし、地を以て和とし、仁徳を以て正とし、事物を以て公とし、尽力を以て誠とし、変数を以て道とする。

つまり、当時ある地域では、刑律は国を治める手段として、道と呼ばれていた。そして、刑名家の論著を「道」と呼ぶのは、そのところの人にとっては常識みたいなもの。その地域は穎川である。そして、鍾会はその穎川の名士の後裔。ということは、その著した刑名家の論が『道論』と名付けられてもおかしくないことになる。

穎川名士はそれほど文学が得意なわけではない。それでも、穎川は名士を輩出した土地と呼ばれたようになったのは、政治学が得意な人が多いからである。前漢から刑律を研究し続けていた荀・陳・鐘・李の四家は穎川でも、名門のなかの名門と言ってもいいレベル。そして、穎川の郭一族も代々法律について研究していた。

それも、宦官が朝政を撹乱し続けたからである。時に政局が乱れ、皆政治だけに焦点を当て、学術に関心向けなくなった。ようやく、対立が深まった。その後の党錮の禁では、宦官と豪族は衝突することになり、穎川の名士たちは主なターゲットとして弾圧され、殺されるか禁錮され、残酷な処分を受けた。一時期、朝廷では穎川の名士は見れなくなった。

再起するようになったのは、袁氏が宦官らを皆殺しにした後のことだった。荀彧は袁紹のところから離れ、曹操のもとへ訪ねた。その後も、穎川名士である荀彧も同じ穎川名士である荀攸、荀悦、鍾繇、陳羣、郭嘉、辛毗などを推薦し続けた。穎川名士の復興は、荀彧と大いに関係がある。漢王朝の時、汝南の名士も多かったが、推薦されなかった原因で、その後はあえなく没落した。

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