『道論』の道は道家の道ではなく、刑律だった。従って、当時道を扱う一族は法律エリートの集まりと言えよう。では道家の道はいずこに?
資料を調べると、王弼という名が出てきた。
王弼は高平王氏という豪族の出である。
その豪族が如何にすごい一族かというと、王弼の親戚の中には三公(太師・太傅・太保)に出世し、宦官と対抗し続けた王龔がいる。その息子の王暢も宦官と対抗し、「八俊」の一人で呼ばれる。
あの有名な党錮の禁で、「八俊」の中の五人が宦官によって殺された。しかし、高平王氏一族はただの名族ではなく、「豪」族なので、王暢はその事件に影響されず、さらに尚書に出身に、劉表という誰しもが聞いたことのある学生を育てた。
その子の王謙にいつての記述は少ないが、当時の皇后の兄上である何進の娘との政治結婚を拒んだことから、王氏のすごさがわかってこよう。その王謙の息子が曹丕の大親友である王粲である。
当然ながら、一族で一番栄えているのは王粲の一脈である。しかしながら、魏諷の乱で王粲の二人の子が殺され、直系子孫は絶えた。ここまで読んでたら、なぜ王粲の二人の子が魏諷の乱に与し、曹操のいない間鄴を乗っ取ろうとしたのか自ずと分かってこよう。
それでも、曹操は才のある王氏一族を滅ばせたくないため、かつて王粲が所持している蔡邕からもらった貴重な蔵書を、王粲の従兄である王凱の息子の王業に引き継がせた。
王凱については、『鍾会伝』の注ではこんな記述が残ってある。
◎《博物記》:初,王粲與族兄凱俱避地荊州,劉表欲以女妻粲,而嫌其形陋而用率,以凱有風貌,乃以妻凱。
◎《王粲傳》:粲容狀短小,劉表以粲貌寢而體弱通侻,不甚重也。
◎《博物志》:表嫌其形陋周率,乃謂曰:“君才過人,而體兒非女聓才。
つまり、王粲が戦乱で荊州にて避難していた頃、劉表はもともと自分の娘を王粲に嫁がせようとしたが、王粲がブスで身長も低いがゆえ、娘をイケメンで王粲の従兄である王凱に嫁がせたと。ここで、王凱の一脈もなかなかのものと考えられる。
で、王業は嗣子として王粲一脈の後を継いだが、魏諷の乱の影響もあるだろう、中途半端な職位しか得られなかった。王業には二人の子供がいて、その一人が王弼だった。
当時王弼一脈の境遇から考え、没落したとは言えないが、重用されるのもなかなかないと推測されよう。そんな栄華が去る王氏一族の本家として、王弼は生まれた。
幸い、世は乱れ、思想が自由になり、才のある若者を高く評価するのが当たり前になった時代に生まれ、若いからって蔑まれることなく、王弼は自分の才を誇り、若者でも名を轟かせる思想家になれるという自信とかたくなる信念を持ってる。王弼の幼少期は、権威を恐れず、十数歳で老子の研究者として高く評価され、鍾会と並び評された。
王弼は酒宴を好み、音律に通じ投壺という遊びも上手。加えて鍾会と仲が良く、おまけに歳も近く、恐らく受けた教育も鍾氏や潁川荀氏のボンボンたちの受けた教育に近いと推測されよう。
研究によると、男の子のIQは母親に影響される部分が多く、賢い男の子の母親も、聡明な方である可能性が高い。王弼も母親のもとで経典や音楽を学び、太学を通っていたのであろう。
性格については、自分の得意分野においては人を嘲笑したり、鍾会と共に当時の学界と対抗したり、自分を起用しようとした何晏の論を批判したりしたことから、お世辞が苦手で、プライドが高い人物像が出てくる。周りから嫌われ、ひねくれものと思われてる可能性が高い。ここは鍾会と似てるかもね笑。
その王弼は文学という自由な形ではなく、注釈という束縛が多く、ストイックで自分に厳しい反省する形で、神である鄭玄の理論を批判し、漢王朝の伝統をズタズタにし、再構築した。その注釈は史上最も壊滅的な批判と言われる。
さらに、王弼は曹爽と何度も「道」について論じ、治世の原則を語ったが、曹爽がそれに驚愕し、嘲笑したという記述がある。ここの「道」はおそらく『道論』の道である。王弼も何晏・夏侯玄らと同じく、自分なりの政治哲学でその時代の問題を解決しようとした。
その性格だからこそ、六朝志怪のひとつ劉義慶(『世説新語』の作者)の『幽明録』には、王弼の死の原因を怪異によるものとする説話が採録されているのであろう。
王輔嗣注《易》,輒笑鄭玄為儒,曰:“老奴無意。”於時夜分,忽聞外閣有著履聲,須臾進,雲鄭玄,責之曰:“君年少,何以輒穿鑿文句,而妄説詆老子?”極有忿色。言竟便退。輔嗣心生異惡,少時遇病卒。
『幽明録』によれば、王弼が『易経』の注釈を施す際に、儒家的に解釈しすぎる鄭玄を常日頃から嘲笑し、老いぼれのやることには全く意味が無いと放言していた。ある夜、門外から何者かが近寄ってきて自らを鄭玄と名乗り、「君は年も若いのに、どうして軽々しく文章をいじくり回し、無闇に私を非難するのか」と、忿然として王弼を責めた。その人物は言い終わると立ち去ったが、王弼の心には畏れと嫌悪が生じ、ほどなく癩病にかかって死亡した、とされている。
王弼の墓は洛陽の郊外にあり、ちょうど魏晋から何百年間幽霊がうじゃうじゃするところだった。
癩病にかかったのはちょうど高平陵の変と同じ年。高平陵の変の後、曹爽・何晏が処刑され、王弼も免職となった。
王弼は司馬氏を支持する傅嘏・裴徽と仲がよく、さらに司馬師にも好かれ、もし生きていたのなら恐らくまたいい職得られるだろう。
王弼死後、司馬師に孔子の早逝した弟子である顔回に喩えられた。その孔子が何晏である。
弼之卒也,晉景帝嗟嘆之累日,曰:“天喪予!”
何晏も政治に熱心で、夏侯玄や司馬師と親しい。彼の理論によると、人は誰しもが聖人になれない、なぜなら聖人は深・幾・神の三つの特質を持っていて、三つ合わせれば「聖人の道」をも成せる。
初,夏侯玄、何晏等名盛於時,司馬景王亦預焉。晏嘗曰:“唯深也,故能通天下之志,夏侯太初是也;唯幾也,故能成天下之務,司馬子元是也;惟神也,不疾而速,不行而至,吾聞其語,未見其人。”
彼によると、夏侯玄は深(世界の理やメカニズムを心得る)、司馬師は幾(天下を治め、動かす)、何晏は神(新しい政体の精神的象徴)、三人の力を合わせれば、聖人の世を実現できると。司馬師もそれを実現するために密かに力を蓄え、期待していた。
しかし高平陵の変の後、何晏が助かりたい一心で曹爽らの裁判を厳しく行ったが、司馬懿は最後に、罪人の中に何晏の名も書き加えるよう言い放ったという。
神は死んだが、司馬師は最後にその理論の正しさを証明した。
今の私と同い年、23歳で、世に経典を残し、王弼は死去した。子はなく、家は断絶したと。