鍾会は、小さい頃から聡敏であることで高い評価を受けていた。そして、十五歳で太学に入った。
太学は曹丕が即位後、黄初五年(244)で設置したもの。
曹操の時も似たような、泮宮という学府を設置した。これは『礼記』に沿って付けた名前である。
◎《禮記·王制》:大學在郊,天子曰辟雍,諸侯曰泮宮。
西周時代に設置された大学は、二種類に分けられる。諸侯が立てた大学は泮宮、周天子が立てた大学は辟雍という。曹操はあえて「辟雍」という名を使わなかった。これは曹操なりの、皇帝になるつもりがない心の表れと言えよう。
太学では、経書を教える五経博士が設けられた。儒教は再度国家公認の学問となり、太学生はそれを学んでいた。入学した太学生たちは初め「門人」と呼ばれ、二年後に試験を受けなければならない。受からなっかた場合は、太学生としての生涯が終わり、実家に帰ることになる。通った人はこれでようやく「弟子」となった。
その二年後、また試験を受ける。通った者は「文学掌故」となる。今度受からなかった人は留年して追試を受ければOK。で、この流れで通った人は「太子舎人」に、4回も無事通った人は「郎中」になる。またその二年後、第5回の試験が行われる。今回の試験に通った人はようやく宮廷に登用されるようになった。
つまり、普通の士族の子弟にとっては、入学してから登用されるまで10年もかかる、ということになる。まさに試験地獄だね。
曹丕の時では、教育手段も改革され、よく学んでいた太学生にご褒美として、一定の官職を与えた。同時に、史上初の律学も設置された。これは曹魏のオリジナルである。官吏たちの仕事の効率を上げるため、律令が学べる学校が設置られた。
もちろん、鍾毓や陳泰みたいな家柄のある嫡子たちは、初めから「散騎侍郎」(五品)という高い官職が与えられた。
ここで一つ注目すべきなところは、母は命婦ではある、そして鍾繇に死ぬほど愛されていたが、鍾会はあくまでも庶子でしかない。そのため、鍾会は初めの頃なんの職も与えられなかった。そして19歳でようやく六品の秘書郎(秘書郎中)となった。普通ならば郎中になるには8年もかかるが、鍾会は4年で郎中になった。これは十分すごいことなんだが、もし庶子じゃなければもっと上へ行けるのは確かである。何故なら、庶子である鍾会は、どれだけ頑張っても兄より品位の高い職につくわけはいかない。
当時、まだ子供である王戎と裴楷は鍾会に会いにきた。それは鍾会が仕官していたばかりの頃の話だった。鍾会は、ふかりはいつかきっと吏部尚書(文官の人事を担当する)になれる、と願った。そして、天下に埋もれた才能が残らないように、と言っていた。これはある程度皮肉めいた言い方である。「自分もその埋もれた人材の一人」と言いたいのだろう。
◎《鍾會傳》:中護軍蔣濟著論,謂:「觀其眸子,足以知人。」會年五歲,繇遣見濟,濟甚異之,曰:「非常人也!」
五歳だった時「常ならぬ人である」と言われて、才能に対する矜持も持っている鍾会は、23歳でようやく兄と同じ品位の職につくことができた。言っていないとはいえ、心の中にきっと不満があるだろう。
王弼も鍾会と同じ、庶子である。年も近い二人は、太学で学んでいながらも、仕官のことで悩んでいた。吏部尚書である何晏は王弼を黄門侍郎として起用としたが、何故か黄門郎の官は王黎に奪われた。その後、王弼はずっと王黎を恨んでいた。鍾会も王弼と同じ、不満があるに違いない。
ちなみに当時は戦事が多く、学校の学生寮を建てるほどのお金は持っていなかった。そのため、子弟たちはみな馬車などで通学することになっている。鍾繇は当時太尉や太傅をやっていたから、おそらく家も学校に近いかと。学校では、鍾会は時にリーダーとして認識され、また時には敵として疎まわれた。こういう生活を送っていた。