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筆跡を探す旅-2

自己実現の道

その後、鍾会は司馬氏に高く買われた。『世説新語』によれば、鍾会はおそらく学生時代の時から司馬兄弟と知っていた。(ちなみに、司馬師は鍾会より19歳年上で、司馬昭は15歳年上)司隷校尉になる前まで、鍾会はそれほど重要な官職に就くことはなかった。しかし、それもあくまで表面上では。

◎《傅嘏傳》:傅嘏與司馬文王徑還洛陽,文王遂以輔政,鍾會由是有自矜色。

『傅嘏伝』では、司馬昭に輔政を任され、鍾会はすぐドヤ顔になったことが書かれていた。鍾会は司馬兄弟に心腹として信頼されていた。もともと謙虚が苦手で、さらに司馬兄弟の手によって権力を握った。鍾会の自我もようやく引き出された。

◎弼按:會固辭太僕而管記室,蓋籌畫帷幄,參與機要。厥後鄧艾被收,自謂洞悉底蘊,無所忌憚,而不料子上之自將兵十萬屯長安也。

中郎として大将軍府で記室の事を管領することといい、後に司隷校尉になったといい、どれも司馬昭のすぐ側で国事を参加する、ということを意味している。魏晋の時の司隷校尉はまた昔と違って、ランクは他の部長たちより低いが、朝政の時では、他の部長たちを差し置いて、一人で上座に座ることができる。思ってよりもとんでもない官職だった。

しかし、こういった官職は、司馬昭が厚遇したからこそ権力を持っているように見える。実際つくのは大したことじゃない職ばかりだった。これも司馬昭なりの警戒だろうか。

その後の鎮西将軍(二品)や司徒(一品)は言うまでもない。人材あふれる曹魏では、こんな早い出世は滅多に見れなかった。

しかし、鍾会と司馬昭の関係も、実は結構微妙かもしれない。

まず、司馬昭は当時、曹髦を殺害させ、曹奐の即位を企んだ。この策が成功した後、司馬昭は功績のある臣下に恩賞を与える。しかし、鍾会はそのリストにいない。

そして、鍾会の檄文では、あくまでも中立する立場を選んだ。『尚書』を多く引用し、先帝と司馬昭両方を褒め、自分は国のため、という正義性を求めた。

その後、司馬昭は鍾会を三公に昇進させようとした。しかし、鍾会は肯じなかった。おそらく鍾会は諸葛誕のことを思い出したのだろう。もうし司馬昭は鍾会の兵権を取ろうとした場合、この拒絶という行為は二人の決裂を意味する。

故に、鍾会の言動から見れば、彼はどっちの味方にもなろうとしなかったのかもしれない。本当に欲しいのは権力だけである。

羊祜も鍾会と同じ、どっちの味方にもなろうとしなかったが、司馬昭はそれを許した。なぜなら、その時羊祜は喪に服すことで忙しくて、兵権も握っていない。司馬昭にとって、鍾会のような脅威ではなかった。

鍾会はただの臣下であって、庶子でもある。その身分は彼の野心を許すことができない。まして彼は権力が欲し、そして自分を証明したいだけど、具体的な目標も持っていなかった。心底では、ただ思うがままに生きたい、という文士の魂が宿っていたのだろう。

書法について、一番よく知られたのはやっぱり筆マネがうまい、ということだろう。『世説新語』では鄧艾の筆跡を真似て偽書を作ったことや、荀勗の筆跡を真似て剣を騙し取ったこともあるしね。後者はおそらく単なる作り話だけど。

◎弼按:會後偽為全輝、全儀作書,又偽作鄧艾章表白事,皆由於善書。

盧弼(『三國志集解』の作者)の話によれば、実は鍾会が子房と呼ばれたことも、このスキルと関係がある。諸葛誕の救援に来た全懌らを降伏させたのは、彼が筆跡を真似して偽書を作ったからであるという。これは甘露二年(257)11月、鍾会が32歳だった頃のこと。同年2月、鍾会の母が薨じた。しかし、この時、鍾会は喪によって家にあったはずでは…?

荀勗については、実は鍾会と結構前から関係を持っていた。荀勗の母は鍾繇の娘なので、一応鍾会の甥と言える。そして、小さい頃から荀勗は鍾会の家で育った。しかし、鍾会は鍾繇が75歳の時の子である。鍾繇が死んだとき、荀勗は既に10歳に達していた。なので二人はおそらく荀勗のほうがちょっと年上だろう。さらに、鍾会が『蒲萄赋』を作った時は、荀勗に同じように作れと命じたことがある。

◎『蒲萄賦』:余植蒲萄於堂前,嘉而賦之,命荀勖並作。一緒に作るのではなく、命令を出したのである。ふむ。

後に鍾会が反乱を起こし、他の大臣はそのことを司馬昭に告げた(この時二人は少なくとも10年以上知っていた)。しかし、司馬昭は平素から鍾会を手厚く遇して、そのことを信じていなかった。おそらく司馬昭は普段からよく他人から鍾会に対する悪口を聞いていたのだろうね。ここの厚遇もおそらく「偏愛」といったほうが正しい^ ^;

◎《晉書·荀勗傳》:鍾會謀反,審問未至,而外人先告之。帝待會素厚,未之信也。勗曰:「會雖受恩,然其性未可許以見得思義,不可不速為之備。」帝即出鎮長安。

ここで、正直で司馬昭にずっと信頼されていた荀勗が諌言し、司馬昭はようやく出兵を決意した。なので、荀勗は鍾会と親しい関係に見えるが、実際結構前から気に食わなかったのだろうね。

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