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良くも悪くも

陸抗の昇進史

『陸遜伝』では、陸抗は自分のことを「王室の出であり、歴世で光寵を荷う」と言っていた。孫家は陸抗のこと優遇したのは明らかである。しかし、陸抗は一体どこまで優遇されたか、を、今回ちょっとまとめてみようと思う。

孫権執政期

陸抗が二十歳、冠礼、つまり成人式を迎えた後、すぐ建武校尉となった。

建武校尉について、『三國職官表』にはこう書いてある、「建武校尉一人 呉所置 見陸遜伝」つまり孫権が陸抗のために初めて設置した職である。陸遜の時と一緒だね。

そして一年後にはすぐ、立節中郎将に昇進した。

孫呉政権は後漢王朝の職官制度をそのまま継承した。でも戦事が多いので、将軍は普通でも見られるようになった。つまり、武官の昇進ルートは大体 都尉→校尉→中郎将→将軍 こんな感じ。

陸抗はこういう時まだ武勲を立てたことないから、まだまだ雑号レベルだけど、十分優遇されていたことは確か。陸凱を見ればすぐわかるだろう。陸凱は初め県令でしかない、功績をあげてからようやく都尉となったのにな^ ^

初めから校尉になったのは孫松(孫堅の孫)あたりで、初めから中郎将になったのは孫登(若死にした孫権の嫡男)くらいかな。

孫権は一体どう思っているかは知らないけど、この待遇は本当陸抗を自分の子のように見ているに違いない…

その後、みなの知った通り、陸抗が病を治りに都に帰った途中、孫権に呼ばれた。孫権は陸遜のことについて泣いて謝った。

翌年、孫権も帰らぬ人となった。

孫亮(孫綝)執政期

孫権が死んで、孫亮が即位した後、陸抗はすぐ奮威将軍を拝命した。

ちなみに、この時孫亮はまだ幼いため、実際権力を持っているのは孙綝だった。

『三國官職表』には、奮威将軍は四品の雑号将軍だけど、かの満寵や周泰もこの職についたことがあると書いてあった。(私心だけど、潘濬もやったことある)

これは結構すごい。何せ陸抗はこの時、まだなんの武勲も立ててない・・・

その後、あの有名な「諸葛誕の乱」が起きた。ここでちょっとこのことについて述べてみたい。

諸葛誕は乱を起こしたとき、呉に使者を送り、援軍を要請した。しかし、兵力差は流石に覆すことができず、呉と諸葛誕はボロ負けだった。

この時、陸抗も実際、大都督・朱異と一緒に、3万人をつれて第二波の援軍として参加したことある。しかし、最初の時は失敗に終わった。

ここで、孫綝は「丁奉と一緒に、五万人を連れて再出撃しよう」と言った。だが、思わぬところで、朱異らが出撃した間に、魏軍は呉軍の基地に攻め寄せた。その時、急に孫綝は朱異を召見しようと言った。陸抗はそれを阻止したが、朱異は聞かなかった。帰ったすぐ、朱異は孫綝と食物がなくても戦えるかどうかで揉めることになって、朱異はそのまま殺されたという。

朱異が孫綝に殺されたと聞いて、ずっと頑張っていた寿春の軍たちも次々と希望を失って、降参することになった。呉でも、このことを機に、孫亮はようやく孫綝と対立することになった。そしてこの戦で、呉は大損失を受けたため、人員を補充しなくてはならない羽目になった。

陸抗は魏軍の牙門将軍や偏将軍(具体的に誰なのかは言っていないが、おそらく孫観や路蕃かと)を破ったため、征北将軍(四征将軍の一つ、ほぼ大将軍)に昇進した。

運が良かったとは言え、待遇良すぎ、とでしか言えない^ ^

孫休執政期

孫亮が廃立された後、孫綝は孫休を帝として擁立した。孫休はまた孫綝と孫亮を殺した。

その翌年、陸抗は鎮国将軍となった。

ここまで聞いて、呉は民や財産を多く持っていたとは言え、人材不足なのはおよそ誰もが察しただろう。

孫皓執政期

孫皓が即位した直後に、陸抗は鎮軍大将軍、益州牧となった。

この時、鄧艾や鍾会はすでに死んでいて、蜀もすでに亡国したため、呉は成都を一部分でもいいから占領しようとした。

孫皓は有名な暴君で、陸凱だけが頭を上げ顔を見ていいと言われた。しかし、陸抗の孫皓への上疏文書にはなかなか臣下としては良くない言葉遣いを使っている。多分言っても相手されないかあまり長生きできないかを思っているからだろう。ただの推測だが、陸抗も多分その「顔を見ていい人」の一人かもしれない。もちろん、あまり顔を合わせる機会がないけど。

しかし、孫皓は陸抗にそれなりにいい態度を取っていたとは言え、陸抗は羊祜とのことで孫皓に疑われ、西陵で援軍を乞うたところで許しは出なかった。そして、死ぬ直前に、陸抗は八万も足らぬ兵でしか持っていなかった。

西陵の戦いの約二、三ヶ月後、陸抗は大司馬、荊州牧になった。が、実際二年しかやっていなかった。陸抗はその時から病が悪化して、病気と戦いながら孫呉の行く末を憂いていた。

羊祜も最初の時は勝てないかも、と思って、陸抗としばらく平和を保つことを選んだ。もちろん、その後の「羊陸之交」は決して嘘ではないが、陸抗の死をずっと待っているのも嘘ではなかった。

君だから勝てない、君さえいなければずっと立てていた呉を滅ぼす計画は実現できる。君の生を望んでいた。しかし、君の死も望んでいた。

「臣の死後の西方を嘱託するものであります」これが陸抗が孫皓へ残した最後の言葉だった。しかし、孫皓は最後までも聞かなかった。

「臣は王室の出であり、歴世で光寵を荷う」

陸抗は期待を裏切らず、使命を果たした。素早く昇進を遂げた同時に、家族や孫呉の滅亡を覆すことができなかった。

なんと無力。

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