『アンティゴネ』はギリシア悲劇の一つ、皆読んだことがあると思う。
ポリュネイケスは王位を取り戻そうと、他の都市国家の力を借りた。しかしやがて敗戦がもたらし、ポリュネイケスは戦死した。その後、クレオンは罰を与えようと、ポリュネイケスの埋葬や葬礼を厳しく禁止した。しかし、その妹、アンティゴネは禁を破って、兄を葬った。そのため、アンティゴネは牢に入れられ、自ら命を絶った。
人としての掟と国の法が衝突を描く悲劇だった。
で、『鍾会伝』を読んでいるうち、急に似てるところがあるだなと思った。
胡三省曰:言会已诛,晋公复以枯骨为讎对,不令收葬。
《晋书·向雄传》:雄,河内山阳人。初仕郡为主薄,太守刘毅尝以非罪笞雄。及吴奋代毅为太守,又以少遣击雄于狱。司隶钟会于狱中辟雄为都官从事。会死,无人殡殓,雄迎丧而葬之。
翻訳されていないから、このところはあまり言われていない。
つまり、姜維と違って、鍾会が死んだ後は、蜀ではもちろん葬ってくれる人がいない。で、魏の方面としては親しい人はもちろんあるんだが、その人たちは司馬昭に厳しく言いつけられ、決して葬ってはいけないと。当時はやったら叱られるのではなく、禁じられたのである。
似てるね。
で、こういう時、向雄という人が出てきた。
鍾会は一時期お父さんと同じ、司隷をやっていた。つまり京での刑法に関わる案件に触れることができる。で、向雄は濡れ着を着せられ、投獄された時期に、運が良く鍾会に助けられ、司隷の補佐官として引き上げられた。罪人から都官従事、大出世である。
鍾会が死んだ後、向雄は王命を背いて、恩人を葬った。
ここまでは一緒、が、物語の結末はアンティゴネと違って、向雄は叱られたが、なんと司馬昭をうまく説得した。
向雄は「自分は道義を貫きました。それは決して咎められようなことではない」と主張した。司馬昭は当時「儒教の継承者」を掲げたため、そのことを許した。
これは阮籍の時と一緒、司馬政権は民心を買えようとしていた。なにせ、正当な理由がないと司馬政権は天下に認められない。司馬昭は儒教を手段し、政敵を「異教徒」として処罰した。司馬政権は正統だから、従わないやつは皆天下の敵。
こう言うとき、たとえ儒教を信じていたとしても、司馬政権を従わなければ信じないのと一緒。なので、嵆康らはその汚染されら「儒教」をひどく嫌っていた。
向雄もおよそそのことを知って、利用している。儒教の導きに従って鍾会を葬った場合、司馬昭は嫌でも従わずにはいけない。孟子の言う通り、儒教の教えは確かにある意味では統治者の権利を制限する力がある。